特別回 Web写真展《追悼 小澤征爾》

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 2024年2月6日、日本を代表する指揮者・小澤征爾氏が逝去されました。「世界のオザワ」として世界を舞台に活躍され、音楽界に多大な貢献をされてきた氏に、心からの感謝と深い哀悼の意を表します。
 本学の小原・堀田写真コレクションは、昭和初期から平成初期までの約70年間の日本の音楽シーンを網羅しており、小澤征爾氏の70年近い音楽生活の前半にあたるおよそ40年弱の、日本での活動を収めた写真を多く所蔵しています。氏の音楽生活の始まりから1990年代半ばまでの活躍をコレクションから辿っていきます。






1965年12月18日 小澤征爾記者会見 日生劇場(撮影/小原 敬司)
(画像未公開)
      
 

(1) 指揮者 小澤征爾


1)プロの指揮者として


 1957年7月、桐朋学園短期大学音楽科(現:桐朋学園大学音楽学部)を卒業した小澤は、師である藤秀雄の紹介で、しばしば群馬フィルハーモニーオーケストラ(現:群馬交響楽団)を指揮しました。この頃のフィルは、渡邉暁雄と日比野愛次が指揮していましたが、時には指揮者不在のことも。そのため渡邉経由で藤秀雄に話が行き、彼の下で指揮を学んでいた若手が派遣されていました。
 
1957年7月28日 「1000人の大合唱」 
赤城山頂大沼湖畔 (撮影/小原 敬司)
B6163-10
      
 

2)武者修行時代 ― 3人の師との出会い

 スクーターと共に貨物船に乗りいざフランスへ。渡欧前後の様子は小澤の著書『ボクの音楽武者修行』で描かれています。1959年9月のフランスのブザンソン国際指揮者コンクールでの優勝に引き続き、1960年7月にはアメリカのバークシャー・センター音楽祭(現:タングルウッド音楽祭)指揮コンテスト優勝とクーセヴィツキー大賞受賞など、小澤は欧米で破竹の勢いを見せていました。
 この武者修行時代に、小澤は3人の師と出会います。ブザンソン国際指揮者コンクールの審査委員長でボストン交響楽団の音楽監督でもあったシャルル・ミュンシュ、ベルリン・フィルのカラヤン、ニューヨーク・フィルのバーンスタイン。3人が小澤に与えた影響は、計り知れないものでした。
 1961年2月、ニューヨーク・フィルの副指揮者に就任した小澤は、4月のニューヨーク・フィル初来日公演に同行し、2年2か月ぶりに凱旋帰国しました。

1961年4月24日 ニューヨーク・フィル来日
羽田空港(撮影/小原 敬司)       
ニューヨーク・フィルの日本ツアーに同行し羽田空港に降り立つ。
成城学園中学校時代の友人たちの横断幕で歓迎を受ける小澤。
(画像未公開)
 

3)N響事件と世界のオザワへ


 国外で評判を高めた小澤は、1962年6月、NHK交響楽団と半年間の指揮契約を結び、メシアン「トゥーランガリラ交響曲」の日本初演をするなど勢力的に指揮をしました。しかし、その間に楽員たちとの軋轢が生じ、12月には楽員たちによる小澤へのボイコットにまで発展しました。この「N響事件」は、逆に「世界のオザワ」が誕生する契機ともなりました。写真は、ボイコットを受け、小澤を支援するために文化人たちの呼びかけにより、1963年1月15日、日比谷公会堂で行われた「小澤征爾の音楽を聞く会」のもの。この3日後、小澤は日本を離れました。
 
1963年1月15日 「小澤征爾の音楽を聞く会」 
日比谷公会堂 日本フィルハーモニー交響楽団
(撮影/小原 敬司)
(画像未公開)
      
 

(2) 世界のオザワ


1)トロント交響楽団
 「N響事件」により日本を離れた小澤は、国外での指揮活動に軸足を移します。その結果、1965/1966年シーズンから1968/1969年シーズンまで、カナダのトロント交響楽団の音楽監督に就任。任期最後のシーズンの1969年4月、大阪国際フェスティバルに出演するため、同響を率いて日本に凱旋しました。海外のオーケストラの常任指揮者として日本人が来日公演を行うのは、これが初めてのことでした。
 
1969年4月19日 東京文化会館
武満徹 ノヴェンバー・ステップス第1番
(撮影/小原 敬司)
(画像未公開)
      
 

2)サンフランシスコ交響楽団


 トロント交響楽団に引き続き、1970/1971年シーズンから1975/1976年シーズンまで、アメリカのサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任し、1975年6月、サンフランシスコ響を率いて来日しました。
 
1975年6月14日 東京文化会館 
(撮影/堀田 正實)
HT-000616
      
 


3)ボストン交響楽団 


 北米大陸でのシアトル、サンフランシスコでの活躍に続き、ついに1973/1974年シーズンより、師のミュンシュがかつて音楽監督を務めた、ボストン交響楽団の音楽監督に就任しました。2002年に退任するまで、29年間にも及ぶ異例ともいえる長さの在任期間となります。ボストン響との初来日公演は1978年3月、初日は福岡でした。
 
1978年3月2日 福岡市民会館
(撮影/堀田 正實)       
(画像未公開)

1978年3月13日 ボストン交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団による合同交歓ソフトボール大会 神宮外苑絵画館前グラウンド(日の丸球場)
(撮影/堀田 正實)
(画像未公開)
 

 
1977年11月1日 記者会見 ホテル・ニューオータニ
初来日のボストン響について語る
(撮影/堀田 正實)       
(画像未公開)
 

4)日本フィルハーモニー交響楽団 


 小澤が、最初に日本のオーケストラの定期演奏会を指揮したのは日本フィルハーモニー交響楽団で、1961年6月のことでした。その後も日本フィルを指揮する機会は多く、「N響事件」後の1963年1月、「小澤征爾の音楽を聞く会」で指揮したのも日フィルであり、小澤は1968年9月、日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーに就任するに至ります。
 
1969年12月24日 ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」
東京文化会館(撮影/小原 敬司)       
(画像未公開)
 

5)新日本フィルハーモニー交響楽団


 日本フィルとの活動はそう長く続きませんでした。1972年に支持母体であるフジテレビと文化放送が日本フィルの解散を通告したことをきっかけに、いわゆる「日フィル争議」が起こります。その過程で日本フィルは分裂し、1972年7月、日本フィルハーモニー交響楽団の一部の楽員、指揮者の山本直純らと共に新日本フィルハーモニー交響楽団を結成し、小澤は指揮者団の首席に就任しました。
 
1973年9月6・7日 ハイドン オラトリオ「四季」 
東京文化会館 
(撮影/小原 敬司)
(画像未公開)
      
 


(3) サイトウ・キネン・オーケストラ


 1974年9月、小澤の恩師である齋藤秀雄氏が逝去しました。小澤は、1984年に師の没後10年を偲び、同門の秋山和慶とともに呼びかけて「齋藤秀雄メモリアル・コンサート」を開催します。このコンサートのために齋藤にゆかりのある音楽家たちによる「桐朋学園メモリアル・オーケストラ」が臨時編成されました。このオーケストラを母体として、1987年に恩師の名を冠した「サイトウ・キネン・オーケストラ」が結成され、同年と1989年の2度にわたってヨーロッパ・ツアーを敢行すると、圧倒的な評価を得ます。小澤は、1992年にこのオーケストラを核に、長野県松本市でサイトウ・キネン・フェスティバル松本(現:セイジ・オザワ 松本フェスティバル)をスタートさせ、今や世界的な音楽フェスティバルとなっています。

 
1984年9月18日 
齋藤秀雄記念メモリアル・コンサート 
東京文化会館大ホール(撮影/堀田 正實)
HT-000602

1984年9月14日 
齋藤秀雄メモリアル・コンサート初練習
桐朋学園大学 秋山和慶と
(撮影/堀田 正實)
HT-000520
 
 

(4) 小澤征爾とオペラ 


 1969年、小澤はカラヤンに突然「征爾、”コジ“を振ったらいい」と言われ、7月にオーストリアのザルツブルグ音楽祭でモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」を指揮しました。小澤が海外で指揮した初めてのオペラでした。この経験で自身の音楽の考え方が変わった、とインタビューで語っています。そのころから「年に1度は日本でオペラを振るのが夢だった」とか。夢が実現したのが、コニャックで有名なヘネシーが協賛した、ヘネシー・オペラ・シリーズでした。その後、「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」でもオペラ公演が定着していきます。
 
1990年5月17日 Hennessy Opera Series I
「イドメネオ」(モーツァルト)
Bunkamuraオーチャードホール 
新日本フィルハーモニー交響楽団
(撮影/堀田 正實)
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1990年5月17日 Hennessy Opera Series I
「イドメネオ」(モーツァルト)
Bunkamuraオーチャードホール 
新日本フィルハーモニー交響楽団
カーテンコール (撮影/堀田 正實)
HT-000882

      
 
 

(5) 小澤征爾と中国


 小澤は、よく知られているように1935年、中国の奉天(現:藩陽)の生まれで、翌36年10月には北京に転居、その後、小澤が6歳の時に一家は日本に引き揚げました。幼少期を過ごした中国は小澤にとって特別な思い入れがありました。1976年12月、引き揚げ以来実に35年振りに、母・次兄と共に北京を訪問しました。それをきっかけに1978年6月、中国人民対外友好協会の招きで中国中央楽団の指揮が実現。さらに1979年3月、米中国交正常化記念によるアメリカ政府派遣の文化使節として、ボストン交響楽団を率いて中国公演を行いました。1979年12月、中国中央楽団でベートーヴェンの交響曲第9番を指揮し、第4楽章で歌われた歌詞は全て中国語でした。
 
1979年12月28日~30日 紅塔大講堂(北京)
中国中央楽団
ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」
(撮影/堀田 正實)
(画像未公開)

中国側から掛け軸をプレゼントされる。 (撮影/堀田 正實) 
(画像未公開)
 
 

<協力>
吉原潤 准教授(昭和音楽大学)

<参考文献>
小澤征爾著(1962)『ボクの音楽武者修行』音楽之友社
小澤征爾著,大窪道治写真(2016)『小澤征爾』新潮社
幹雄編,木之下晃写真(1980)『小征爾 : 対談と写真』ぎょうせい
音楽之友社(1994) 『小澤征爾NOW (Ontomo mook)』 音楽之友社
音楽之友社(2002) 『征爾とウィーン : 征爾ウィーン国立歌劇場音楽監督就任記念(Ontomo mook)』 音楽之友社
木之下晃著(1981)『Seiji Ozawa : 木之下晃写真集・征爾の世界』講談社
木之下晃写真,下村満子,中河原理文(1995)『征爾とサイトウ・キネン・オーケストラ1992-94』音楽之友社
群響50年史編纂委員会編(1997)『群馬交響楽団50年史』群馬交響楽団
春秋社(2002)『小澤征爾大研究:新装版』春秋社
広渡勲著, 上坂樹編集協力(2020)『マエストロ、ようこそ : 日本クラシック界に歴史を刻む大芸術家たちと舞台芸術』音楽之友社

SEIJI OZAWA MATSUMOTO FESTIVAL / OMFについて / サイトウ・キネン・オーケストラ
https://www.ozawa-festival.com/about/saitokinenorchestra.html
(参照2024-2-20)
SPICE クラシック / 小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクトXXがおくる、「ダ・ポンテ三部作」最後の作品 
歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』公演詳細が決定
https://spice.eplus.jp/articles/323551
(参照2024-2-21)


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